『呪術廻戦』考察#7|真人 ― “混沌の哲学者”が問いかける人間の本性 (Jujutsu Kaisen Analysis: Mahito — The Philosopher of Chaos and Human Nature)

呪術廻戦(Jujutsu Kaisen)

『呪術廻戦』に登場する呪い真人(まひと)は、人間の「負の感情」から生まれた存在です。

人の形を歪め、魂を弄ぶその姿は、単なる悪役ではありません。

彼は“人間とは何か”という問いを、最も残酷な形で突きつけてきます。

本記事では、真人を「混沌の哲学者」として捉え、エジプト神話の蛇神アポピスとの共通構造

「秩序と混沌の永遠の対立」――を軸に考察します。

さらに、虎杖悠仁との関係を通して、「救済」と「破壊」という相反するテーマが

どのように物語を動かしているのかを掘り下げていきます。

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真人とは ― 人間の「負の感情」から生まれた呪い

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冒頭でも触れましたが、真人は“人間の呪い”です。

無垢な少年のようなテンションで残虐非道に人の魂をおもちゃのように弄び、操り、殺す。

非常に衝撃的で残酷なキャラクターです。

真人の行動や戦闘スタイルは、常に「支配」「破壊」「変容」を軸にしています。

  • 他者の肉体を自在に変形させる
  • 呪力で破壊されても自己修復する
  • 感情や理性ではなく、本能的・衝動的に行動する

これらは、完全な「混沌」の象徴として描かれています。

神話的象徴 ― アポピス的混沌

「混沌」を象徴する神話の登場人物はいくつかありますが、そのひとつの例として、アポピスをイメージするとわかりやすいかもしれません。

エジプト神話のアポピス(蛇神)は、七海建人の考察でも触れた「秩序」の神マアトと対をなしています。

巨大な蛇の姿をしており、「夜の闇」や「破壊」「不条理」を司る存在です。
世界を秩序づけるマアト(Ma’at)――つまり「真理」「正義」「調和」――の対極に立ちます。

関連記事 -> 『呪術廻戦』考察#6|七海建人 ― 理性と秩序で“呪い”に抗う男 (Jujutsu Kaisen Analysis: Kento Nanami — A Man Fighting Curses with Reason and Order)

アポピスの死体は決して消えない

アポピスは毎晩、太陽神ラーに襲い掛かります。そして倒されます。
しかし毎晩倒されるものの、決して完全には滅びません。翌晩にはまた復活し、ラーの船を襲うのです。

これは「混沌は永遠に消えない」という宇宙観を示しています。
つまり、エジプト神話では“秩序と混沌の戦い”は永遠に続く。
完全な勝利も、完全な破滅もないのです。

アポピスの哲学的な意味

アポピスは単なる「悪」ではありません。
彼は“秩序が存在する限り、必ず生まれる抵抗”の象徴です。

混沌があるからこそ、秩序の価値が際立つ。
言い換えれば、アポピスは世界の均衡を保つために必要不可欠な反存在なのです。

エジプトの思想では、マアト(秩序)は静的で安定的な原理。
一方でアポピスは動的で、常にその秩序を揺るがす。
その揺らぎの中で、世界は毎日「再生」され続けるのです。

  • アポピスは太陽神ラーを襲い、秩序を乱す混沌の象徴
  • 真人もまた、秩序ある世界に侵入して混沌をもたらす存在

この構造は、七海建人の「秩序・救済」の象徴性と対比させることで、作中の神話的・哲学的構造が見えてきます。

関連記事 -> 『呪術廻戦』考察#6|七海建人 ― 理性と秩序で“呪い”に抗う男 (Jujutsu Kaisen Analysis: Kento Nanami — A Man Fighting Curses with Reason and Order)

アポピス=「理性を揺るがす混沌の鏡」

アポピスは、“悪”というよりも、秩序を試す存在です。
完全な調和(マアト)が存在する世界に、あえて「破壊」をもたらす。
それは、世界を再生させるための“必要な混沌”。

真人もまさにそれと同じ構造です。
彼は「人間の秩序」を壊すことで、“人間の定義”を再構築させる。
つまり、真人=アポピスは「混沌による啓示」を担うキャラクターなのです。

虎杖悠仁との対比 ― “救済”という第三の原理

どんなに攻撃を受けても、真人には効きません。
自分の魂も相手の魂も自在に変えることのできる、まさに無敵の存在です。

しかし、そんな真人にも天敵がいます。
それは――虎杖悠仁。

なぜ虎杖悠仁が真人の天敵になり得るのかについて考えてみます。

作中では、両面宿儺の存在が大きいという話になっていますね。

虎杖悠仁の中に別人である両面宿儺の魂がいるため、虎杖悠仁は魂の存在を知覚しやすい状態にある。だから魂を操る真人にも対抗できる。

なるほど、納得です。

しかし、真人と虎杖悠仁の戦いの終盤で、真人は逃げ出します。


それまで虎杖悠仁との戦いを無邪気に、嘲りながら楽しんでいたあの真人が、獣に襲われる小動物のように。

これはなぜなのでしょうか?

真人が逃げた理由 ― 「否定」から「救済」への転換

きっかけは、虎杖悠仁の言葉です。

「俺はオマエだ。俺はオマエを否定したかった」
「今は違う。ただオマエを殺す」

虎杖悠仁は、人の命をいたずらに弄ぶ真人をずっと否定していました。


それが戦いの末、否定するのをやめました。これはどういう意味があるのでしょうか。

虎杖のモチーフ ― 地蔵菩薩・弥勒菩薩

ここで考えられるのが、虎杖悠仁のモチーフと役割です。

虎杖悠仁のモチーフは、地蔵菩薩や弥勒菩薩に近いと考察されます。

地蔵菩薩は地獄にいる「すべての人を救う」という目的を持っています。
また、弥勒菩薩も遠い未来に、自らの生命を犠牲にしても他者を守る存在です。

真人が混沌・支配・破壊の象徴であるのに対し、虎杖悠仁は秩序・救済・生命の保護の象徴です。

真人は「混沌」の象徴。
「秩序」と対立するからこそ存在できる。

しかし虎杖悠仁は否定すること――つまり対立をやめました。

ただ救う。
地獄にいる全員を救うまで、地獄に入り込み、救済をやめないことを宣言しました。

関連記事 -> 『呪術廻戦』考察#1|虎杖悠仁は“現代の菩薩”?依代・地蔵・弥勒が示す隠された意味 (Jujutsu Kaisen Analysis: Yuji Itadori’s Buddhist Motifs)

秩序でも混沌でもない、“救い”の力

この戦いで明らかになるのは、救済の力は秩序や混沌の枠組みを超えるということです。

真人の力は「破壊」と「変容」という混沌そのものですが、虎杖は「否定をやめ、ただ救う」ことで、混沌がそのまま持つ絶対性を打ち破ります。

この構図は、アポピスがラーの秩序を絶えず揺るがすのと対照的で、混沌に対して秩序ではなく、救済という第三の原理が介入した瞬間を象徴しています。

虎杖のような「全員を救う」力は、真人のような混沌にとって予想外の圧力になる。
真人は秩序で抑えられるよりも、救済によって自分の自由が制限されることを恐れたと解釈できます。

真人が逃げたのは単なる「力負け」ではなく、
自分の混沌が虎杖の救済の意志によって、より上位の次元から浄化され、かき消されることを避けた行動とも言えます。

まとめ

真人は、単なる戦闘キャラクターではなく、混沌そのものを具現化した存在です。

  • 他者を自在に改造する術式
  • 絶対支配の領域展開
  • 虎杖との対比による救済の象徴化

これらを通して、『呪術廻戦』は単なるバトル漫画以上に、
秩序と混沌、救済と破壊の哲学的対立を描いていることがわかります。

真人を通して見ると、『呪術廻戦』の世界では、
混沌そのものがキャラクターとして生き、物語を動かしていることが浮き彫りになります。

※※注意※※
この記事で紹介している内容はあくまで考察です。
真人に関する元ネタが明言されているわけではありません。
ただ、こうした視点で読み解くことで、『呪術廻戦』をより楽しんでいただけたら嬉しいです。

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