五条悟。
『呪術廻戦』の中でも圧倒的な力を誇り、同時に「生徒を守る教師」として描かれる人物です。
五条先生といえば、チート級の強さや「六眼」持ち、天才だとかなんとか――とにかく「よくわからないけどすごい人」というイメージが強いでしょう。
しかしその根底には、「観音菩薩(かんのんぼさつ)」という仏教的モチーフが見えてきます。
この記事では、五条悟の「六眼」や「無量空処(むりょうくうしょ)」の概念を通して、観音菩薩との共通点を探ります。
観音菩薩とは?
観音菩薩は、仏教における慈悲の象徴です。
「観音」という名の通り、“人々の声(音)を観る(聞く)”ことで救う存在。
苦しむ衆生を見守り、その声を聞いて現れる――まさに慈悲の化身です。
人々がさまざまな苦しみに直面したとき、観音菩薩はその状況に応じた姿で現れます。
たとえば――
- 王に救いが必要なときは王の姿で
- 子どもが救いを求めるときは母の姿で
- 修行者を助けるときは僧の姿で
- 魔物を戒めるときは武神の姿で
観音は固定された姿を持たず、常に相手に最も届く姿で現れます。
五条悟も、あらゆる立場で人を救おうとします。
- 宿儺を宿した虎杖悠仁に対しては理解ある教師として
- 親を失い姉と生き残りたい伏黒恵には保護者として
- 強すぎるがゆえに孤独な両面宿儺には戦友として
彼は、さまざまな人物の苦しみを見出し、救おうとする。
その生き様は、観音菩薩と通ずるものがあります。
千手観音の誕生
「千手観音」という名前を聞いたことがある人も多いかもしれません。
千手観音は、観音菩薩が“慈悲を極めてパワーアップした姿”を表しています。
観音は、人々の苦しみを見続けるうちに、
「救いたいのに救いきれない」という悲しみから心が砕け、身体が粉々に砕け散ってしまいました。
その姿を見た阿弥陀如来(彼女の師)は、
「お前の慈悲は真実だ」と言い、砕けた身体を千の手と千の目を持つ姿に再構築しました。
それ以来、観音菩薩は無数の手で人を救い、無数の目で苦しみを見守る存在となったのです。
千手観音の“千の手”は、「あらゆる人に救いの手を差し伸べる」ことの象徴。
“千の眼”は、「どんな苦しみも見逃さない慈悲のまなざし」。
この「どんな苦しみも見逃さない」という特徴は、五条悟のもつ「六眼」とも通じる概念です。
五条悟と観音菩薩の共通点
「六眼」とは、すべてを見通す“悟りの眼”。
仏教では、悟りの深さによって“物事を観る眼”が六段階に分かれます。
- 肉眼:普通の眼
- 天眼:遠く・過去未来を見通す超常の眼
- 慧眼:真理を見抜く智慧の眼
- 法眼:教えの正しさを見極める法(仏法)の眼
- 仏眼:すべての衆生の姿を見通す仏の眼
- 智眼:すべてを“空”として観る宇宙の真理の眼
悟っていくたびに見える世界が広がり、最終的に「智眼」に行き着くと如来と呼ばれる存在になります。
ブッダが「目覚めた人」と呼ばれるのもここからきています。
そして、五条「悟(さとる)」という名前はまさに“悟りを得た人”。
五条悟の“六眼”は、それを体現しています。
この六眼によって「世界の構造」や「他者の痛み」を深く理解しており、
それゆえに、誰よりも優しく、そして誰よりも孤独な存在として描かれています。
「無量空処」= 観音菩薩の慈悲そのもの
五条悟の領域展開「無量空処」は、敵に“無限の情報”を与える技。
あまりにも多くの知覚を与えられた者は、思考も行動も止まってしまいます。
この「無限の知覚=悟りの世界」に閉じ込める技は、仏教でいう「真理への直面」「全知の境地」を象徴しています。
観音菩薩の慈悲は、「無限に広がる愛」で人々を包み込みます。
五条悟の無量空処もまた、「無限」というキーワードで、人間の限界を超えた境地を示しています。
教師としての姿勢 ― 苦しむ者を導く“導師”
観音菩薩は「衆生を導く者」として知られます。
五条悟もまた、呪術高専で若い世代を育て、導く存在です。
ただ力を誇示するのではなく、「次の世代に希望を託す」姿勢。
それはまさに、観音がすべての衆生を“仏に導く”姿と重なります。
哀しみと孤独 ― 慈悲を知る者の宿命
観音菩薩は、他者の苦しみを自分のものとして感じる存在。
そのため、常に他者の痛みとともにあるという宿命を背負います。
五条悟もまた同じです。
「誰よりも強いが、誰も理解できない」。
彼の孤独は、力ゆえではなく、他者の苦しみを深く理解しているからこそ生まれるものです。
これは観音菩薩が苦しむ衆生の声を一身に受ける姿にも重なります。
五条悟の観音菩薩と虎杖悠仁の弥勒菩薩の対比
五条悟のモチーフである観音菩薩、虎杖悠仁のモチーフである弥勒菩薩はいずれも「苦しむ人を救う」存在です。
しかし、それぞれの役割は異なります。
- 観音菩薩は「今を救う慈悲」
現世で苦しむ人々を今すぐ救う存在。
人の「悲しみ」「迷い」「絶望」を見て、手を差し伸べる――“いま、目の前の苦しみを助ける存在”。 - 弥勒菩薩は「未来を救う希望」
弥勒菩薩は、釈迦が入滅(亡くなった)後、56億7千万年後に現れる未来仏。
まだ救いが完成していない未来の時代に、最終的な救済をもたらす存在。
「今すぐ助ける」観音菩薩とは異なり、「未来のために希望を残す存在」です。
五条悟は終始、生徒たちに未来を託す姿勢を貫いていました。
その期待を受けて、虎杖悠仁はまだ救われきっていない世界で、それでも希望を持って生きていく。
観音菩薩と弥勒菩薩、それぞれの特色が、五条悟と虎杖悠仁の役割に反映されています。
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まとめ
五条悟は、ただの最強キャラではありません。
その「六眼」は真理を見抜く眼であり、
その「無量空処」は無限の慈悲を象徴し、
その「導師としての姿勢」は観音菩薩のような慈愛の表れです。
無限を見通す眼を持ち、苦しみを包み込む慈悲をもつ“現世の観音”。
その強さと優しさは、人を超えた「悟り」の形なのかもしれません。
※※注意※※
この記事で紹介している内容はあくまで考察です。
五条悟が公式に「観音菩薩をモチーフにしている」と明言されているわけではありません。
「こういう見方もあるんだな」と楽しんでいただくことを目的としています。
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